「芸術とは何だろう? 」
ふと、そんな疑問が頭に浮かぶ。
美術品、絵画、音楽、映画作品。色々な言葉を連想する。
大きくまとめると、芸術とは
「期限付き現実逃避」
できるものではないだろうか?
現実世界を忘れて没頭できる事。それが芸術だと思う。
僕は特に音楽が好きだ。楽器も演奏する。音楽の世界だけで言うと、CDコレクターだったこともあり人並み以上に音楽の作品に触れてきた自負がある。 素晴らしい音楽は、「今、ここ」という現実を良い意味でも悪い意味でも忘れさせてくれる。
映画も同じで、良い作品に出会ったときは時間を忘れてしまう。
「あれっ、もうこんな時間だ」
夢中になって、作品の世界に没頭しているとき、そんな感覚に陥る時は無いだろうか?
一時的に芸術は時間という概念を忘れさせてくれるのだ。
大好きなミュージシャンの音に触れている時、それこそ飯も食わずにオーディオにしがみついていた頃もあった。
自分でギターを弾くようになり、人前で演奏して作曲までやり出した時、「作品」について真剣に向き合う機会があった。
曲つくりの時、僕は作品の細部まで気を遣うタイプだった。ギタリストなので、自分のギターがどう聞こえるかを考え抜いた。
MTRという録音機器を使い、何度もなんども録音し直して、ギターのフレーズにこだわっていた。
なぜか?
自分が、夢中になっていたアーティスト達の作品を聞くと、音の旋律だけで胸が踊ったり、頭の中に新たな世界が広がっていった。
その感覚を大事にしていたので、自分の作品も聞いてくれる人に情景を見せたかったわけだ。
リスナーを別の世界に連れていきたかったとも言い換えることができる。
自分が音楽という芸術に触れて、見てきた世界は現実とは違う、異空間だった。
最近、バンクシーというNYのストリートアーティストの作品に触れる機会があった。
そこには、日常を超えた芸術の世界があった。
社会問題を風刺したその作品たちに、何か迫り来る狂気を感じてしまった。
その芸術作品は人の内面を映し出し、それを他者の脳裏に強く訴えかける。
言葉にならないメッセージを感じる。
表現する可能性は無限大。作品から感じるイメージも無限大。バンクシーのドキュメンタリー映画ではその注目度の高さとユーモアに溢れた作品、そして異常に高値な値段で取引される作品が紹介されていた。
中にはストリートで登場した途端、一瞬で消されてしまったり、盗難にあってしまう作品もある。それくらい社会に与える影響度と注目度が高い証拠でもあるだろう。作品の中で一番印象的だったのは、何処にでもある風景画にドイツの独裁者を登場させた絵だった。
個々に見ると、どこにでもある作品だったが、組み合わせることで強烈なメッセージを放っていた。
彼は言葉ではないメッセージを、芸術という作品で世に問いかけているようにも、嘲笑っているようにも感じた。
日本には岡本太郎の「太陽の塔」という、作品がある。1970年に日本万国博覧会のテーマ館として制作され、今も名を根強い人気を誇っている。
初めて見たときの正直な感想を言おう。
「意味わからん」
と、思ってしまった。
なぜ、この作品が有名なのか?
なぜ、今もなお愛されるのか?
なぜ、意味がわからないのに惹きつけられる「何か」がそこにあるのか?
ぼくは疑問を持つと調べずにはいられないたちだ。自分の中で納得した答えを得たい。
答えは岡本太郎の人柄の中にあった。
岡本太郎のインタビュー記事や、著書を読み漁った。
もうすでにその頃、岡本太郎はこの世から旅立っていたので、彼のことを調べるには本が一番早い。
僕が、岡本太郎を調べて出した答えはこれだ。
「ぶっ飛んでいる人」
いや、このぶっ飛んでいる得体の知れない発想の持ち主だからこそ、この太陽の塔が出来上がったのではないだろうか。
岡本太郎のパートナーであり、実質妻のような存在であった岡本敏子さんから見た、岡本太郎の世界に僕は人とは違う異質な何かを感じた。数々の逸話は、それを物語っていた。
「そう、これがアートで芸術なんだ! 」
岡本太郎の心の叫びが、作品たちを通して、僕の心に訴えかけてくる。
太陽の塔や、その他の作品は岡本太郎の分身なんだな、と思った。頭の中のイメージをそのまま外界の世界に放った結果、
「芸術は爆発だ! 」
という名言まで副産物として世に放たれたわけだ。
以後、何度となくこの言葉がアーティストの背中を押してきただろうか?
もう、数えることの出来る数ではないことは確かである。
後世まで名を残した素晴らしい芸術家だ。
僕が素晴らしい思う芸術家の中には、坂本龍一さんもいる。
「戦場のメリークリスマス」は時代を超えて愛される超名曲だと思うし、彼の奏でる日本人好みな神秘的でマイナー調の旋律は世界中で愛されている。 「ラストエンペラー」では映画音楽でアカデミー作曲賞も受賞している。因みにこれは日本人初の快挙だった。
坂本龍一さんは役者としても映画に参加していて、皆がよく知る「戦場のメリークリスマス」の正式な題名は映画のセリフから「Merry Christmas Mr.Lawrens(メリークリスマス ミスターローレンス)」だったりする。
大島渚によるこの作品のラストで、ビートたけし演じる旧日本軍軍曹がデビットボウイ演じる英軍少佐に向かって、笑顔でこう伝える。
「メリークリスマス、ミスターローレンス」
そこで、あのピアノの旋律がエンドロールと共に流れ、感動を誘ってくれる。
僕が坂本龍一さんを愛してやまない理由はそれだけではない。
もちろん作品はどれも素晴らしい。YMOの音楽は今聞いても先鋭的なセンスを感じる。
驚くべきところ。それは坂本龍一さんは世間に受け入れられた曲も、あまり受け入れられなかった曲同じ心意気で作曲していて、それについて本人曰く、
「なぜ、この曲が受け入れられたのかわからない」
と話していた。僕は一瞬誰のインタビュー記事を読んでいたのかを忘れるくらい驚愕してしまった。
さらに、
「世間に受け入れられた曲もそうでなかった曲も僕は特別意識していない」
とも話していた。
信じられない。あの稀代の名曲「戦場のメリークリスマス」も「ラストエンペラー」も日本の疲れたサラリーマンを一瞬にして癒しの空間に導いた、「energy flow」も、何も意識せずに作っていただなんて。
正直に言おう。僕は坂本龍一さんのソロ作品はほぼ聞いているが、ファン目線からしてもあきらかに駄作は存在している。
「戦場のメリークリスマス」の様な作品を期待してアルバムを購入したら、しっぺ返しを喰らうことすらある。
でも、その不安定さこそが坂本龍一さんの魅力であり、芸術作品だと思うのだ。
僕は最近、「森羅万象」という言葉が好きである。この四文字ほど、音楽の世界を表現している言葉な無いと思っている。
この言葉を知った時、身体中に電流が走った。
本屋大賞にも選ばれた恩田陸さんの名作「蜜蜂と遠雷」の中で、音楽とは「森羅万象」というキーワードが出てきた。
「あらゆる現象、宇宙に存在する一切のもの」と定義されている。
人間が想像する事ができる空間や概念を超えた考え方である。
そう、この感覚。僕が感じていた音楽や映画を見ると別世界に旅立ったような、あの感覚。
それは「森羅万象」だったのだ。
芸術はよく宇宙に例えられる。人間は古来から人智を超えた存在や現象を宇宙や神に例えてきた。
アーティストな中には作曲作業を「宇宙との交信」と例えている人もいた。
宇宙と芸術は密接な関係なんだと思う。
XJAPANのYOSHIKIは自身の活動を「破壊と創造」と表現した。その奏でる旋律は儚くて美しい。
心に訴えかけてくる芸術作品はどこか「死」を連想させる。死後の世界を人間はアートの世界で表現したいという欲があるのだろう。
京都に観光に行くと、お寺やお城といった国の重要文化財が立ち並んでいる。二条城の屋敷の中に描かれている屏風絵もどこか儚く、人間の憧れの世界を描いているように思えた。殺伐とした戦国時代に描かれた屏風絵も現実とは違う世界だ。
過去の武将たち、過去の絵描きも、芸術の世界に現実とは違う別の世界を望んできたように僕は思う。
芸術作品はこの世界とは別の世界に連れて行ってくれる。こことは違うどこかへ。
その世界に触れたいから、近くに行きたいから僕はまた、芸術作品に触れたくなる。
その世界は僕たちが知らない宇宙のどこかにあるかもしれない。
未知の世界への憧れ、死後の世界の恐怖からの解放。現実世界からの逃避。
芸術家が放つ世界はそれらを払拭してくれる。
人の心を慄す芸術家はその世界を知っているではないだろうか。
そう、
芸術家は宇宙人なんだ。
<終わり>
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